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「ちょこざいなっ!」

お酒を飲みながら日々の雑感をダラダラとつづるブログ

ややこしい話

昔から人は「幸せ」について問うてきたみたいです。

古くは、『教科書でしか見たことない』代表の

智の巨人(と言われているそう)アリストテレス先輩から、

なんとなく聞いたことのあるアラン(作家:フランス)やラッセル(哲学:イギリス)も「幸せ」について考えていたみたいで、

アランとラッセルはその名も『幸福論』という書物を刊行しています。

仰々しいですね。

 

身近なとこで言えば椎名林檎が幸福論という歌を作っています。

椎名林檎的幸福は『あなた』だったみたいです。

わかりやすいですね。


椎名林檎 - 幸福論

 

 

ちなみに、

アリストテレス

「幸福とは快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂の固有の形相である理性を発展させることであるとして、幸福主義をとなえた。」

●アラン

「健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説く。」

●ラッセル

「己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧める。」

                            (by wikipedia

 

だそうです。

わかりにくいですね。

そう。わかりにくいんです。

 

上でわかりやすいですねと言った椎名林檎でさえ、

「しあわせを探した時、愛し愛されたいと思った」

「求めたものは見慣れた手だった」

と遠回しにしか言ってくれません。

 

「もっと簡潔に言ってくれればいいのに」

と思いませんか?

【幸せとは"セックス"である】

みたいな。

言い切ってくれればいいのに。

って。

 

でもこう言っちゃうと、

「いやそう言うけどね、AVのセックスは?強姦は?援交は?

別れ間際の相手とのしゃーなしのセックスは?」

みたいな反論がすぐ飛んでくるわけですよ。

めんどくさいですね。

いやいや、そういうセックスちゃうねん。

って気持ちになりますよね。

ややこしい。

とさんざん話した所で、幸せについてはさておくことにします。

 

 

次。

 

 

「私は何者であるか」という質問もよく問われてきたものであろうと思います。

汎用性が低いので書物等にはなりにくいですが、誰しもが一度は考えたと思います。

(えっ、考えたよね?どうなんやろ。自信なくなってきた…けど…考えたことにする)

この問いに対し、

「君は人だ」

などと無思慮に答えられると釈然としない気持ちになりますよね。

「父◯◯母△△から生まれた身長□cm体重Xkgの男子(女子)である」

みたいに言われると、

 

『それはそれで間違ってないけど、

もっと自分を決定付けるものとしてはこういうものがあって、

こうこうこういうことを考えていて、

こういうきっかけがあったから今こうしてるけど、

このきっかけを得たのもそもそも…』

 

と続いていく。

この羅列は話し出せば誰もがそこそこ長く続くだろうと思います。

 

 

戻ります。

 

 

この"私"を"幸せ"に置き換えてみます。

"幸せ"としては

『幸せとはセックスである』

と無思慮に言われると釈然としないと思います。

「いや、確かにそれは間違ってないよ。

けどそれは、お互いが愛している場合であって、

その愛しているというのも…」

と延々と続いていくと思います。

 

 

ここまで字数を要して私が言いたかったこと。

それは、

ふわっとしたことを相手に納得してもらうために話す時その理路は長くなる。

ということです。

そして今、

「"ふわっとしたこと"ってなんやねん。定義不足やろ!」

と言われれば私に反論の余地はないわけで、

お互いの"ふわっとしたこと"の認識をすり合わせていかないといけないわけです。

この義務は免れない。

これが発言者に課される責任だろうと思います。

 

これらの話からわかることは、

『誰かが何かを簡潔に(もしくは断定的に)話す時は、"ある場合"に厳密に限定した時である』

ということです。

逆を言えばその限定が許される場合にのみ断定できるわけで、

発言者はみな"限定が許される場合"の説明に骨を折り、その限定が確かそうであると聴衆に認めてもらうために情理を尽くして語ります(ゆえに理路が長くなります)。

(それにはもちろん聴衆側の忍耐と努力を必要としますが)

 

ゆえに、世間の多数に受け入れられていない主張をする時や思慮深い人が発言する時、

彼らは、

「自分の責務は果たせているか」

「この限定は受け入れ可能であるか」

を確かめながら一歩一歩進めていくため、その言説は非常にややこしくYesともNoとも取れるような歯切れの悪いものとなります。

聴いている側からすれば、

「Yesなん?Noなん?どっちなん?」

と苛立つこともままあるだろうと思いますが、この遅々として進まない理路こそが発話者の聴衆に対する敬意です(実は)。

 

さて最近は、断定・言い切り型の言説が非常に目につきますが、その限定が確かなのかということには目を向けられていない様に思います。

 

「"常識"とはある瞬間に限定するがゆえにその説明を免れる事象(大意。違ってたらすみません)」

 

というのは勝手に尊敬している内田樹氏の言葉ですが、

『自分が話す時に拠って立つ限定(=常識)は果たして受け入れ可能なのか』

という問を自身に投げかけられるくらいには理知的になりたい。

と思いますが、

 

>最近は、断定・言い切り型の言説が非常に目につきます

 

とすぐ上で断定してしまうくらいに浅はかであることも痛感している今日この頃です。

 

こちらからは以上です

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